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natures wisdom - the main theme of the world exposition, Aichi
       
EXPO 2005 CR

EXPO and the CREXPO and the CR

1992年 Seville

1992年万博の準備は、まだ、チェコスロヴァキア社会主義共和国の時代に始められた。主催者側は、パルム街のスイス・パビリオンと愉快なパレンケ・パビリオンの60メートル×40メートルのスペースを我々のパビリオンにあてがった。展示の企画は全国無記名式コンペでインドジフ・サンタナ氏の案が採用された。その後1989年には、パビリオンの設計に関してヤン・コゼル氏とカレル・コウツキー、ヴラジミーラ・レニーチュコヴァー夫妻による共同プロジェクトが採用された。ビロード革命後、政府代表は解任され、準備はチェコスロヴァキア連邦共和国外務省に委ねられることになった。1990年初頭には、建築家の間で、当初予定のプロジェクトの破棄を要求する要求があった。そして、J.ホンザル氏が政府代表の座を更迭され、後任にミロスラフ・ガルシュカ氏が就任した。1990年3月下旬、私たちの万博への参加の全体に渡る執行に関する無記名方式コンペの公示があった。1990年6月14日には、建築家ヤロミール・クレイツァル氏、建築家ヤーン・シュテンペル氏、そして哲学者ペトラ・レスカ氏らによる企画が採用された。ヤロミール・クレイツァル氏によるパビリオンのデザインは1937年のパリ万博の時のパビリオンを思い起こさせる物だった。問題は、レスカ氏のアイデアにあった。同氏は内側の壁にコロンブスの時代以来のチェコとスロヴァキアの有名人の名前を書き並べると言う物で、これらの名前は、順次チェコとスロヴァキアからファックスで送られてくる新生児の名前と置き換えられて行くような仕組みになっている。幸運に恵まれたことに、ガルシュカ政府代表はこのような展示が不適切であることを当初から気付いていたので、1991年に彫刻家のヴラチスラフ・カレル・ノヴァーク氏の企画を改めて採用した。ノヴァーク氏は、ガラス作家ヤロスラフ・マトウシュ、ヴラジミール・コペツキー、マリアーン・カレルと一体となった結果、大体10分位の上演 ─ 非公式には「クシジークの噴水」と名付けられた物になった。技術長のイジー・チェルニーは、照明と臭いと温度を駆使し、それにミハル・パヴリーチェク氏の曲が加わった動くガラスの人造物のための空間を用意し、そこにこれらを一日の内に一色単にした物を作り上げた。大きな改善点はパビリオンのデザインにも見られた。最終的には、単純な直方体になり、その内壁はオーク材の梁に覆われ、青い網がかかっていた。その形については、いろいろとニックネームがつけられていたが、好意的なニックネームは稀であった(“火葬場”、“ガラス工房の倉庫”、“棺”など)。パビリオンの内装のアレンジは、極めて単純に区分けされていた。内装で目を引いていたのは、手すり付きの持上げられた板状の物体で、この物体には入場者はエスカレータで上がることができた。ヴラジミール・コペツキー氏によって、表面には板ガラスが貼付けられていた。これは、彫刻的に興味深い物であったが、残念ながら万博後にコンクリートの床から剥がすことができなかった。下世話ではあるが、われわれのパビリオンは思いのほか早く売却できた。パビリオン館長のズデニェク・コウデルカ氏とAYESA社の建築家ジョゼー・ルイース・マンザナレス氏との長期に渡る密な交渉が実ったものだった。展示物に関しては、ザラゴザ市、グラナダ市、セビリア大学美術学部などが興味を示した。チェコスロヴァキア連邦共和国ナショナルデーは5月20日に開催された。大きな反響があったのが、ハナ・ハヴロヴァー氏による「セビリアへのプラハからの敬意」であった。そこでは、プラハの幼児キリスト像のレプリカが製造され、1992年5月23日にはセビリア大司教のカルロス・アミーゴ・ヴァジェフにマカレナ教会への贈り物として授与された。チェコスロヴァキア共和国パビリオンのレストラン「プラハ」は、フランスのレストランに継ぐ第2位の賞を獲得した。しかし、私たちの国からのマスコミ、さらに入場者による、チェコとスロヴァキア共同の最後の万博での私たちのパビリオンへの評価は批判的であった。これに対して外国からの入場者による評価は、比較的好意的であった。