
EXPO and the CR
1939年〜1940年 サンフランシスコ1939年に開催されたサンフランシスコ世界博覧会への我々の参加は、チェコスロヴァキア貿易局(プラハのホレショヴィツェ地区の博覧会宮殿にあった)の先導によって実現された。初期の段階から貿易局の次官であったヤロスラフ・コセ氏によって非常に活発に押し進められて行った。なぜならば、一番最初の会議でチェコスロヴァキア政府代表に任命されており、このため熱意もひときわ高かった。もっとも熱心な協力者は、サンフランシスコのチェコスロヴァキア名誉評議委員であったエルビン・ラヂスラフ・フロウペクで、チェコスロヴァキア代表実行委員長も務めた。1938年12月に博覧会参加のための予算が組まれ、総額68万1千コルナが計上され、そのうち6万コルナを工業商業省が出費し、残りを貿易局が出費した。問題は、貿易局はすべての前金及び経費をひとまず支払わなければならず、その後、省に支払いを求めなければならなかったことだった。博覧会実行委員会 Golden Gate International Exposition on San Francisco Bay(略称GGIE)訳すところのサンフランシスコ黄金橋国際博覧会実行委員会はチェコスロヴァキア共和国に、国際パビリオンC棟内のホールの557?の展示スペースを無償で提供することを申し出た。1939年1月には、ほぼ同時期に開催されるサンフランシスコとニューヨークの博覧会におけるチェコスロヴァキアの参加への支援を呼び掛けるキャンペーンが開催された。 GGIEへは商業分野の60もの出展者を擁して馳せ参じた。チェコスロヴァキアの展示のスローガンは「買って下さい、メイド・イン・チェコスロヴァキアを!」であった。ブースと展示インスタレーションの企画は、アントニーン・ヘイトゥム氏が担当した。2月18日の開催初日までに我々の準備は間に合うことは出来なかった。ショーウィンドーには謝罪の文が掲示されていた(開催初日に間に合わなかった展示は他にも我々以外にもあったが、謝罪を掲示したのは我々だけであった)。現場責任者は、普通の環境下であったら開催日までに昼夜問わず作業をし、間に合わすことができたと話していた。というのは、アメリカでは、時間外の就労は、地元の労働組合が認めなかったし、土曜日、日曜日の就労は法律で禁じられていた。加えて、現地の労働者達の仕事のテンポが遅かったことも原因となっている。 我々のブースは、オランダ、スウェーデン、ハイチ、ポーランドの展示に囲まれていた。我々の展示自体は、ガラス張りで青い縁のショーケースに囲まれていて、そのショーケースは、白い文字が打ってある赤い帯とつながっている高さ3.3mで白い金属製の柱に掛けられている。各角には八角形のショーケースがゆっくり回転していた。スペースの真中にはインフォメーションブースが陣取っていて、テーブルの上のプロペラが煽ってインフォメーションの上では横断幕がはためいていた。我々のコーナーの右側部分では、我が国の美しい自然と民俗芸能の展示に充てられていた。主な展示参加者は以下の顔ぶれだった: ズリーンBATA株式会社、プラハSRB & STYS社、WALDES社、ウヘルスキ・ブロトLIDOVA TVORBA社、プラハのA. MUNZBERG社、プラハSEKCE PRUMYSLU RUKAVICKARSKEHO社、ゼレニー・ブロトSPOLEK ABSOLVENTU SKLARSKE SKOLY 社、WEISS & KOBLITZ社、AKA社、BYTOVE TEXTILIE BRNO社、KOSMOS CASLAV社、L. AUSPITZE VNUKOVE社、ブルノTOVARNA NA JEMNE SUKNO社、FOERST A HAUSNER社、イイフラヴァTOV?RNA NA PLETENE ZBOZI、J. PORKERT社、スクフロフTOVARNA STROJU PRO DOMACNOST社、ZORA社、SOLO社。 遅延を含んだ最終完成予定日であった2月28日からさらに遅れて、3月4日にようやく展示の公開に至り、オープン記念式典にはサンフランシスコ市長、GGIE副代表の他、著名人が参列した。オープンから1ヵ月も経たない3月29日、リットレル大使は外務省を通じて商業省に、ただちにサンフランシスコ世界博覧会に参加中のチェコスロヴァキアの展示を中止するよう通達した。撤収の正式命令は3月31日に発せられ、チェコスロヴァキア博覧会協会会長のフランシス・フレウンド氏は貿易局との合意の後、撤収後の展示品の販売の権限を委譲され、1939年4月15日に参加各社は彼に展示品販売の委任状にサインした。展示品をすべて売りつくすことができるように、関税は既に支払われていた(売り上げは13万8千コルナに昇った)。企業の撤収作業には、サンフランシスコの邦人による博覧会協会に委ねられた。チェコスロヴァキア展示インフォメーション事務所第一主任のミクラーシュ・V・マーラは事務所をA・ルーチェク氏に任せ、シカゴの代理店が任務を引き継いだ。A・ルーチェク氏は後に貿易局から展示の責任者に任命された。 ところが、4月に我々の展示の撤収を阻止する重要な転機が訪れた。展示の性質を半公式的で保護国の製品の紹介を目的とする純粋な商品展示とすればドイツの利益に結びつくと、ドイツ帝国当局への働き掛けが功を奏した。ドイツ当局もチェコのアーリア人系企業の個々の展示に関しては基本的に異を唱えていなかった。この方針の承認後すぐの4月27日には、A・ルーチェクは展示に「ボヘミア及びモラヴィアの製品見本展」と記すよう指示する内容の手紙を受け取った(唯一のスロヴァキア企業でバンスカー・ビストリツェの綿入れの工場ケレーミ社に関しては、触れられなかった)。展示のカタログ(ヤロスラフ・ベンダ美術工芸学校教授によるデザイン)に掲載されていた前文は、新しい方針に適合するように書き換えられた。1942年に博覧会の余波は残っていた。当時、貿易局のデイル博士は帝国経済労働省に、ヘイトゥム氏とフレウント氏による不明瞭収支の解明と、実施された展示に関わる未払い経費の精算を要請していた。 ヤロスラフ・ハラダ |
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