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natures wisdom - the main theme of the world exposition, Aichi
       
EXPO 2005 CR

EXPO and the CREXPO and the CR

1939年〜1940年 ニューヨーク

1936年12月にニューヨーク万国博覧会への正式参加要請を受け、1937年11月、チェコスロヴァキア政府は参加を決定した。1938年2月3日、チェコスロヴァキア商業省よりラヂスラフ・トゥルノフスキーと、米国政府代表およびNew York World's Fair 1939 Incorporated社社長のグローヴァー・ウォーレン氏が協定書に調印した。1938年5月25日には、ヒュゴ・ヴァヴジェチュカ政府代表を委員長とする、チェコスロヴァキア万博内閣顧問委員会を設置した。連絡小委員会をヴァヴジェツキー氏、ヤナ・トシェビツキー氏、ラヂスラフ・K・フェイエラベント氏らで構成していた。計画の段階では7つの省庁が参加していたが、1938年10月の段階では、その数を3省庁(労働省、商業省、教育省)に絞り込み、政府は当初の予算2710万コルナのうち35%の予算削減に成功した。パビリオンの企画はカミル・ロシュコト氏及びF.X.フルシュカに託された。パビリオンの鉄骨構造は、ヴィトコヴィツェ製鉄所が製造した。全長107m、全幅25mのパビリオンの正面側を地元ニューヨークのHegeman & Harry社が施行した。自国のパビリオン以外にも、“民族館”の国別ホールにスペースをあてがわれ、そこの企画をラヂスラフ・ストナル氏が担当し、そこでは、ストナル氏とヴァーツラフ・ヴィーレム・シュテフ氏による歴史と文化の展示が行われた。

3月初頭には、ほとんどすべての展示品がアメリカへ送られていた。このとき、第2の共和国という苦痛が頂点に達していた。3月上旬はまだ、ヴァヴジェツキー氏はアメリカに要人を派遣することが可能であり、1939年3月13日の段階でまだチェコスロヴァキアホールのガイドブックを、せめても表紙無しでも出版しようと奔走していたストナル氏もアメリカに出立できた。保護国に編入された後、実行委員会も再編され、ボヘミア及びモラヴィア工業展示参加実行委員会となり、参加実現を模索していた。ベルリンの帝国(ドイツ)外務省は、我々の参加の中止を命じ、4月には帝国財務省はパビリオンの施工及び管理を担当していた、B. Soumar a spol.社に1万ドルを送金し、撤収作業に当たらせた。ニューヨークの造形美術協会は、保護国制度の下の実行委員会を認めず、ゲオルグ・ヤネチェク氏を長とする新しい実行委員会に、チェコスロヴァキア・パビリオンを引き渡した。1939年4月14日、パビリオンの撤収作業を任命されていたストナル氏はニューヨークへ到着したが、すぐに、ベドジフ・グレンズウェイグ氏らと共に展示の設置作業に取りかかった。

パビリオンは、開催より3ヵ月遅れて、運営を開始することができた。パビリオン開館記念式典には、チェコスロヴァキア亡命政府の代表者達も参列した。パビリオンの運営は、前期後期とも同胞(在米チェコスロヴァキア人)の組織が執り行った。我々は、ニューヨークに、もはや地図上には無い国を建国したのだった。パビリオンの外観は陶器のタイルで覆われ、窓が帯状に一周していた。堂々たるパビリオン正面(続く後部別館を見下ろす)には、巨大なチェコスロヴァキアの紋章の部分と底辺の入口部分に分かれている。国の紋章の下には、ヤン・アモス・コメンスキーの言葉「チェコの民よ、制圧の時代を超えて、やがて主権はそなたの下へ

戻ってくるだろう」が掲げられていた。

パビリオンの内装はアントニーン・ヘイトフム氏が担当した。我々のパビリオンは、日本パビリオンとソビエト連邦パビリオン(第2期目の期間の前に参加を取り止められ、代わりにアメリカ共同体の記念式典スペースとなった。)の間を割って位置していて、フラッシング門の近くの噴水のある池の淵にあった。建築家ツブル氏と同じく建築家のポコルニー氏は、3つのショーウィンドーを設計し(手袋、刺繍、宝石)、その周辺スペースのアレンジメントも担当した。さらに、WALDES社、ZADRUHA社、DETVA社、GLASER & GOLDSTEIN社(チェコガーネット)の展示のデザインも行った。BATA社は幅7m高さ2mの5つの枠のある、直径24メートルの半円

形のスペースに展示場所を充てられた。そこには、バチャ家、トマーシュ・バチャ、J.A.バチャ、スリーン市の絵が展示されていた。まん中には“現代アメリカ人女性の小部屋”と称する物があった。静かな合唱曲が雰囲気に彩採られ、天井下のピンクの鏡が現実を映し出していた。精密機器と光学の分野では、PAVEL MEISEL社、SRB A STYS社、JOSEF A JAN FRIC社が展示を行った。ヴァーツラフ・フィアラは、ジョージ・ワシントンの宣誓のシーンのジオラマを制作した。ちなみに人物フィギアはミンカ・ポトハイスカー氏が作成した。ジョージ・ワシントンが市民や軍隊の前で議事堂のバルコンから宣誓をしている様子を描いている。円周35メートルの半円形の手織り絨毯は、イエドリチェク研究所で完成された。マックス・シュヴァビンスキー氏は記念ホールのために、人間として立ち上がるチェコスロヴァキアを描いた。ガラスモザイクで描かれたロマンス様式とゴシック様式(批評家に言わせるとヴァーティカリズム様式とのこと)の塔が建ち並ぶプラハはカミル・ロシュコト氏がデザインし、ヤン・トゥンパフ師が原画を起こした。首都プラハ市は同作品を5万コルナで万博実行委員会から買い取り、万博後はニューヨーク市へ寄贈された。モザイク画の下部には、英語で「プラハ、チェコスロヴァキアのメトロポリス、その最初の塔は神の祝福に届くほど高く、アメリカ合衆国の門たるニューヨーク市に挨拶を述べる」と記されていた。1946、1947年の時期に、モザイクのチェコへの返還が検討されたが、費用が嵩むため断念せざるを得なかった。そこで現地邦人のグループがシカゴ墓地に設置することになった。チェコスロヴァキアのリネンによるマリエ・ホップ・テイニゼロヴァーによるゴブラン織「チェコスロヴァキアのリネン」は、画家K.プッツ氏によってデザインされた。リネンの織物は少女像を象徴化していた。パビリオン屋上のレストランでは、“民族の池”を見渡すことができた。パビリオンの玄関ホールに置かれる予定だったミスルベク氏のブロンズ彫刻「忠誠」は不運に見舞われた(アウグスト・バルターク社が鋳造し、ボフスラフ・フメラーシュ氏が仕上げを担当した)。彫刻をアメリカへ送ることが出来なかった。彫刻は税金の未払いと言う名目で、保護領財政当局によって差し押さえられてしまったのだった。

ヤロスラフ・ハラダ