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natures wisdom - the main theme of the world exposition, Aichi
       
EXPO 2005 CR

EXPO and the CREXPO and the CR

1937年 パリ

1937年パリ万国博覧会のチェコスロヴァキア政府代表はヤン・クルチュマーシュ氏であった。

我が国のパビリオンはセーヌ川のほとりの好立地条件下にあり、加えて、魅力的なアメリカ合衆国のパビリオンとスウェーデンのパビリオンの間に位置していた。1936年9月2日、工芸美術大学での会合において、選考委員会はヤロミール・クレイツェラ氏とその制作グループ(ズデニェク・ケイシュ氏、ラヂスラフ・ストナル氏、ブフスラフ・ソウマル氏)によるパビリオン計画を選出した。パビリオンには、当時の最高の建築技術が集結した。このパビリオン建築について、かの建築家ル・コルビュジエも賞賛した。基本構造の鉄骨材はヴィトコビツェの製鉄所で作られ、構造は“サーモラックス”と呼ばれる特別なガラスで覆われていた。パビリオンの外見は優美ではあったが、難を言えば、展示スペースとしてのコンセプトに欠けていた。展示のインスタレーションが完了すると、ますますパビリオン内の展示進行の流れの悪さが目立つようになった。まずパビリオンに入ると、ボフミル・カフカ氏の作品であるライオンが置かれ、右手側には、コメンスキー、パラツキー、プルキニュそしてマサリクの胸像が配置されている“名誉の間”を通り抜ける。展示自体は、美術工芸学校のプレゼンテーションから始まる。これはL.ストナル氏が主催する職業訓練会と連係していた。ガラス部門をA.ヘイトゥム氏が担当した。“オリジナルアイデアの展示”(ガラスの手すり、スポットライト)や、“素晴らしい展覧会”(ドラホニョフスキー教授の作品による)の他は、所狭ましと一般製品が展示されていた。陶磁器の部門では、もはやカルロヴィ・ヴァリのfabrik Bohemia社、Epiag a R. Kampf社の独壇場ではなく、ホルニー・スラフコフのHaas & Czjzek社、オストロフのPfeiffer & Lowenstein社が台頭してきた。テキスタイルの展示では、A.ワックスマン氏により、デパートのショーウィンドーを思わせるものだった。楽器部門では、Petrof社が今回も、そのピアノの構造でグランプリを受賞した。地上階の展示は農業関連の展示で終わる。

2階展示スペース全体(総展示空間面積の75%)は、工業分野の展示にあてられた。ここは、まさにあらゆる種の見本市のカクテル状態の様相を呈していた。溢れんばかりの入場者の目の前で、何でも有りの、輸出製品を中心としたオンパレードだった。これらすべての頭上では、飛行機“Praga-Air-Baby”が翼を広げ、笑顔を強ばらせたミス・コヒノールや、クリップ、ピン、ファスナー、ホック、指ぬきから作られた胸像が、訪れる人々の目を楽しませた(Waldes社作)。

テラスでは、民芸品、貿易庁、煙草管理局による展示が行われていた。コロナードでは、温泉郷12都市が、ズデニェク・リクルよってプレゼンテーションを行った。そして温泉と関連してラジウムに関する展示もあった。この展示によって放射線の医療目的の使用が広まった。ここのスペースでは、ズデニェク・ペシャーネクによる噴水が、活気づけている。テラス内巡りは、スラヴィーチェク氏のプラハのパノラマで終わる。

パビリオンのすぐ隣では、プルゼン市民ビアホール(建物はJ.クレイカル氏及びエヴァ・シュトリムポヴァー女史が設計し、B.シロテク社が建設を行った)が男性群に食事とビールを、その2階では女性群に人気のチョコレートのオリオン社の展示があった。

我が国は自国のパビリオン以外では、国際パビリオンに出展していた。そこでは、ヤロスラフ・ベンダ氏が1930年代の本とイラストの総合展示を行った。そして、郵政省は拡大した切手の展示をしていた。また、財務省はショーケースに紙幣貨幣のデザインを展示した。広告パビリオンでは、我が国は数枚のポスターを出展し、そこに足跡を残した。

我が国のアーティスト達は、造形美術宮殿に展示の場を与えられたが、しかしながら彫刻のインスタレーションは、相当いいかげんなものだった(木板の不格好な土台)。

健康パビリオンでは、ストナルが“田舎での生活”部門で、一連のパネルを披露した。印刷パビリオンでは、またもやストナルが、我が国の展示に参加した。この様に活躍したストナルは今回のパリ博でグランプリと14個の金メダルを受賞した。

服装部門では、イジー・フレイカとヴラチスラフ・ホフマンが展示を準備し、舞台と衣装をデザインした。

チェコスロヴァキアの関連行事の後援はシュテファン・オススキー駐パリ公使が取り持った。我が国のカタログのデザインはストナルが、そして初めの言葉をカレル・チャペックがそれぞれ担当した。

内閣府の発表の中でエマヌエル・プルハルト氏は我が国の展示について批判的であった。この失敗は、1942年にプラハでの万国博覧会の誘致を真剣に協議していたチェコスロヴァキアとしては大きな痛手となった。