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natures wisdom - the main theme of the world exposition, Aichi
       
EXPO 2005 CR

EXPO and the CREXPO and the CR

1933年〜1934年 シカゴ

1932年チェコスロヴァキア共和国は国際万国博覧会条約に調印し、すぐに加盟が認められた。1933年のチェコスロヴァキア共和国は、BIE(博覧会国際事務局)の正式加盟国として、シカゴ万博「進歩の100年」に参加した(途中中断の後1934年再開)。世界恐慌は各国の参加に暗い影を落とし、結局、自国のパビリオンを擁し参加した国は14ヵ国のみで、その14ヵ国にはチェコスロヴァキア共和国が含まれていた。パビリオンのプロデュースをチェコスロヴァキア共和国工業商業省のヨゼフ・マトウシェク氏が務め、チェコスロヴァキア共和国政府代表にはラヂスラフ・トゥルノフスキー氏が任命された。主催者側からあてがわれたパビリオンの場所は、北部の会場のメインと成る場所にあった。入場門からは、入場者は遊歩道を歩き、万国旗の立ち並ぶ下を通り、ケーブルカー“スカイ・ライド”の乗り場に行き着く。まさにその停車場の目の前に我が国のパビリオンが建っていた。スウェーデン・パビリオンと万国旗通りを隔てた向い側のイタリア・パビリオンと共に1つのグループを形成していた。我が国のパビリオンのすぐ裏隣には、スタジアムがあった。最大限に展示を考慮したパビリオンは、建築家カミル・ロシュコタ氏の手による。建物の正面は、ガラス張りの傑作で遊歩道側を向いていた。裏側の別館には、低い袖が連なっていて、“L”字を形成していた。パビリオンの前部側面の上部分は、黄色く輝いていて(色とりどりのシカゴ万博でも、異彩を放っていた)、壁の素材は、落ち着いた色の人工壁板であった。延べ1000?の展示スペースには、70以上ものチェコスロヴァキアの企業のブースによって区画された。入口の上には、芸術的にアレンジされた大きなチェコスロヴァキアの紋章をあしらったガラスのモザイク作品があった。夜になると、後部別館のガラス張りの部分が、内側から効果的に照明され光り輝き、まるで巨大なショウケースの様だった。文化と自然史のテーマ展示の入口は、ヤロスラフ・シェトリーカ氏による “プラハの光景”とチェコ人画家オタカル・シュターフル氏の“大タトラ山地のパノラマ”が圧巻だった。その他の展示は、大きな市場の雰囲気に演出されていて、その雰囲気は、最後の商店の展示まで続く。その店では、チェコとスロヴァキアの伝統工芸品を買う事ができた(カルロヴィ・ヴァリの磁器、スロヴァキアの刺繍製品、チェコガーネットで作られたヤブロネツの装飾品など)。チェコスロヴァキアパビリオンの出展企業の半数近くは、ルドヴィーク・モーゼル社やスクラールニー・カヴァリエール社、ノヴィー・ボールやジェレズニー・ブロトをはじめ、トゥルノフ、オルドジホフ、スカリツェ・ウ・チェスケー・リーピ、ヴィムペルク・ヤブロネツ・ナド・ニソウ、プラハ、ブルノ、フリードシュテイン、ドゥルシュコフ、ロウジュニツェなどの小中企業、そしてガラス製品の輸出を促進している機関など、ガラス関連の企業であった。美術工芸学校の展示では、ヨゼフ・ドラホニョフスキー教授が、その作品を展示した。その展示の対面では、ガラスの展示と比べて磁器の展示は大人しかった。ノヴァー・ロレとスロバキアのモドレーのボヘミア社が展示を行った。チェコガーネットに関する展示は、トゥルノフからとプラハからのそれぞれ各2社が出展した。当時新しい分野だった、陶製建築材の展示には、プラハからの2社が出展した。比較的展示数が多かったのが、編み細工製品の展示で、バコフ・ナド・イイゼロウの小企業4社が出展を行った。この展示をサポートしたのが、ムニホヴォ・フラヂシュチェの企業で、そしてモルコヴィツェの編み細協会が後援した。そして大々的な展示を行ったのが、農業信用組合だった。ホップ産業も大きな展示を、ジャテツのホップ産業企業組合とウーシュチェクのホップ公定評価所が行った。紡績企業4社がこのチェコ栄光の伝統産業の展示を行った。その他の我が国の産業から疎らながら見られたのは製紙産業、楽器(クラスリツェのコルレルト社及びブルノのリエドゥル社)、パイプ煙草、革製品、科学測定機器、食品産業、玩具製造、出版産業、応用芸術、鉱山関連からはヤーヒモフのウラン鉱山などが展示を行った。また、農業省、鉄道省、切手コレクションを披露した郵政相などの諸省、ならびにその他、国家教育局、チェコスロヴァキア煙草専売公社、プラハ見本市やグランドホテル・シュロウベックが博覧会に参加した。貨幣コレクションの展示でのアメリカ市民に最も注目されたのは、やはりヤーヒモフのトラル通貨であった(ヨアヒムスタレル→タレル→トラル→ドル→ダラーと変遷し、アメリカ合衆国を含む30ヵ国及び地域の通貨単位に使われている語源である。)巧の手工業の分野では、スクリューのJ.L.F.レスラ社、そして、グラビア印刷のカレル・クリーチュ社が出展した。「チェコスロヴァキアのアメリカ」展は、アメリカ民族展の一部として企画された。しかし、プロジェクト「アメリカ民族展」は計画倒れになり、そのため、チェコスロヴァキアパビリオンで直接「チェコスロヴァキアのアメリカ」展が開催される事になった。チェコのレストランは、アトラス・ビアホールとプルゼン市民ビアホールの2店がオープンした。万国博覧会での「チェコスロヴァキア・デー」の開催前日(6月26日)第2回米国チェコスロヴァキア青少年団連盟大会がシカゴで行われ、盛大な行事が行われた。ちなみに、1932年にはアメリカ青少年団の第9回大会がプラハで行われたが、シカゴではその逆に135のチェコスロヴァキアの青少年団が集合し、前任のヨゼフ・シェイネル氏の死去に伴い1932年にチェコスロヴァキア青少年団連盟理事に就任したスタニスラフ・ブコフスキー氏の指揮下、体操を披露した。その他、チェコスロヴァキア・デーでは、「王者の行進」が披露され、まさにチェコスロヴァキアを象徴するスメタナの交響詩「我が祖国」で締めくくられた。夜は、同じくスメタナのオペラ「売られた花嫁」が上演された。チェコスロヴァキア・デーでは、チェコスロヴァキア共和国上院議長フランチシェク・ソウクプ代議士も出席した。万博開催期間中、我が国のパビリオンには650万人の入場者が訪れた。チェコスロヴァキアの人々が必ず訪れたのが、2回目の南極探検を控えていたリチャード・エヴリン・バード船長のアドミラール号であった。チェコスロヴァキアからの人々だけで無く、在外のチェコ人、スロヴァキア人も、南の浅瀬に停泊している船を見物するのに25セントを惜しまなかった。というのも、バード氏の最初の南極探検のメンバーとしてヴァーツラフ・ヴォイチェフ(1932年8月6日事故で死亡)が参加し、1929年12月10日南極圏に達し、1930年1月27日チェコスロヴァキア人として初めて南極大陸に足を着いたと言うことがあったからである。

ヤロスラフ・ハラダ