
EXPO and the CR
1904年セントルイス建築家ヤン・コチェラ氏は自身のプロジェクトですでに1900年のパリ万国博覧会で成功を収めており、1904年のセントルイスでのルイジアナ“購買”博覧会におけるオーストリアパビリオンの美術展示の実行責任者としてもまた成功した。ヤン・コチェラ氏は1903年には造形芸術アカデミーが支援する展示の内装作業を監督できるようにセントルイスへ発った。デサインには民俗装飾をふんだんに取り入れた。コチェラ氏の詳細にわたるデザイン起こしは同僚のエマヌエル・パラント氏が担当した。チェコ美術展にはチェコのアーティストの作品41点(絵画、エッチング、彫刻)が出展された。これら作品は、オーストリアパビリオンの美術部門内の4ケ所に配置されていた。セントルイスより、チェコのアーティストは5つのグランプリ、19つの金賞、各7つの銀賞と銅賞をプラハへ持ち帰った。 コチェラ氏の美術工芸に関するセンスは、1903年製作の式典用のポンチのためのグラスとガラスの食器にも反映されており、当セットは万博のために作られた。アメリカに住んでいた人類学の権威アレシュ・フルドリチュカ博士は人類測定学の分野の展示の責任者の候補者でもあったが、博士はフィリピンの当地における7つの未開部族に関する展示に興味を示していた。 セントルイスで、マックス・シュヴァビンスキー氏は自身の絵画「織り機」で金賞を受賞した。同作品は1903年の重版のリトグラフ作品でウィーンの版画芸術協会より賞を授与されていた。絵画作品「乗り越えられる仕事」と「機織り女の居眠り」は販売先のサンフランシスコで震災のため消失してしまった。 ヤロスラフ・ハラダ |
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