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チェコガラス週間チェコのガラスにおける“奇跡”の根源
しばしば私は「チェコ人は如何にして世界に先駆けて彫刻と絵画を自然に、また有機的にガラスと組み合わせることができたのか?」という質問を受ける。その質問に対して簡潔に答えるのは容易ではない。それゆえ私は、2001年にプラハで出版された「チェコのガラス」という本2)の中で、その質問に対するより詳しい研究を試みたのである。 その研究の成果として得ることができた私の見解を一文に集約するならば、チェコのガラスの“奇跡”は、3つの事柄の恩恵によって、1945年以降に生まれたものである、と言うことができる。3つの事柄とはすなわち、“ガラスの伝統”、“教育システム”、“才能のある人々”である。 現代に至るまで脈々と続くボヘミアのハンドメイド・ガラスの伝統、それらは各地における独特の美術教育システムと結びつき、1940年代以降、才能ある人々が世界に羽ばたくための土壌を形成してきた。一つの世代がまた次の世代に教え、知識は人とのコンタクトとともに伝えられていった。また他の芸術分野がイデオロギーの弾圧に至極窮していたにも拘わらず、国の体制はこのガラスという特別な芸術分野に関しては、それ程多くの規制を強いることはなかった。 チェコのガラスにおける熟達した技術と伝統的な工芸は、旧来のボヘミアン・グラスの工場で維持されていた。そうした工場は、未発展の国家経済、個人所有と自由市場の欠落、何よりも安い労働力の上に成り立っていた。しかし一方で、工業デザインにブレーキがかかっていた反面、ガラス芸術には大きなメリットがあった。ガラス作家はそれに合流して、またそれぞれの芸術的ビジョンの現実化を支援しようという絵画や彫刻の分野の仲間を容易に見つけることが出来たのだった。世界大戦全盛期の前のチェコキュビズムのような形で現れたチェコのファインアートや応用美術は、非常にアヴァンギャルド的な様相を呈することがしばしばであった。現在の作家達の思考はキュビズムのみでなく、その次の様式、1918年から1925年のチェコアールデコ、20世紀終わりからの機能主義、戦前の絵画、彫刻、写真などに、今日に至るまで影響された。 チェコのガラス教育の歴史は19世紀半ばのオーストリア=ハンガリー帝国の時代まで遡ることができる。今日まで、初等教育では優秀な職人を養成し、その上の中等教育ではガラス製造、技術をマスターし、最上級の大学レベルでは優れた芸術才能の向上に努めてきた。3つの教育段階を全て修了するということは、すなわち13年間に渡って、技術、工芸、美術、そして共同作業などの面からガラスを学ぶことになるのである。 しかし言うまでもなく、ガラスに対してしっかりとした目的意識を持っている人でも才能と想像力がなければ、結果的にこれら全てでも十分ではなく、さらにその成果は環境によっても左右される。ドイツファシズムの占領下、チェコの大学での勉学は一時的に廃止された。しかし、中等学校でガラスを勉強することは可能であった。なぜなら1947年になってから大学機関に組み込まれたプラハ工芸美術学校は、当時のこの抑制に縛られることがなかったからである。絵画や彫刻の分野の教育を受けたい学生は志を断念することなくガラスのアトリエに入っていった。ガラス科は戦後も存続した。このガラス科の存続を後の優秀な人材が保障することとなるが、それは独自の教育システムだけではなく、学校の成果に対する高い評価、ヨセフ・カプリツキーやスタニスラフ・リベンスキーといった作家であり優秀な教師陣、そして芸術の自由が保障されていたという事実、そうした様々な要素によるところが大きかった。クラシックな美術修得法を駆使するだけの(社会主義)リアリズムに従いたくなかったものは好んでガラスを勉強することを選んだ。プラハのガラス科は他のどこよりも、学生達が個々のビジョンを実現化するために、多くの自由と、解釈と、選択肢を提供したのである。 |
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